自説:五徳論

三皇五帝を紹介するにあたり,あまりに諸説があってまとまらないので,ここでは,

三才(天・地・人)の創生神としての三皇は, 天皇氏・地皇氏・人皇氏(秦皇)。

司馬貞の『史記』三皇本紀では、 人皇氏の後に
五竜氏、燧人氏、大庭氏、栢皇氏、中央氏、巻須氏、栗陸氏、驪連氏、赫胥氏、尊廬氏、渾沌氏、昊英氏、有巣氏、朱襄氏、葛天氏、陰康氏、無懐氏と続き,

人への文化,文明の創生神としての三皇が, 伏羲・神農・黄帝 と続くとしました。

そして五帝を,司馬遷の『史記』の五帝本紀から,
 黄帝・(せんぎょく)・(ていこく)・堯・舜 としました。

 まず三皇五帝をまとめようとした理由ですが,BC300頃?の鄒衍(すうえん)という人が,五行の相剋関係で歴代王朝の交代の革命論を説きました。 五行相剋による終始五徳論といいます。  

 歴代の王朝は各々に相応する五行の徳を持つと考え,その王朝の徳が衰退すると剋する関係にある勢力によって,政権交代が起こるというものです。

つまり..... 黄帝(土)-<剋>-夏(木)-<剋>-殷(金)-<剋>-周(火)-<剋>-秦(水)です。

 

ところで徳とは.....

徳という字は,西周時代の金文ではという文字で,眼から発っせられる力の象形でした。眼の呪力による威圧,降伏の意味です。
でも,単なる力というよりも,女性の媚眼のようなニュアンスだそうです。また,そういった能力のある人がお払(祓)をする,というような意味も含んだらしいです。

 

道徳経

第三十八章(徳経としての初文)

 上徳不徳,是以有徳。(徳の高い人は徳を意識しない,だから徳がある。) 

下徳不失徳,是以無徳。(徳の低い人は徳を意識する,だから徳でなくなる。)

  上徳無爲而無以爲。(徳の高い人は徳を作為しないし欲しがらない。)  

  下徳爲之而有以爲。(徳の低い人は徳を作為して欲しがる。)      

  上仁爲之而無以爲。(仁の高い人は仁を作為はするが欲しがらない。)  

  上義爲之而有以爲。(義の高い人は義を作為して欲しがる。)      

上禮爲之而莫之應,則攘臂而援之。

(礼の高い人は礼を作為し,人にも強制する。)

 

故失道而後徳。(したがって道を失った後が徳。)

 失徳而後仁。(徳を失った後が仁。)     

 失仁而後義。(仁を失った後が義。)     

 失義而後禮。(礼は義さえも失った後。)   

夫禮者,忠信之薄,而亂之首。

(礼というのは,人に対して忠や信が薄くなった,世の乱れの始まりである。)

 

前識者,道之華,而愚之始。

(気を効かせる<智>などというのは,虚飾であり,愚かさの始まりである。)

 

是以大丈夫處其厚不居其薄,處其實不居其華。故去彼取此。

(すなわち大丈夫とは重厚にして軽薄によらず,実にして虚飾によらない。つまり仁儀礼智をすて道にのっとるということ。)

老子の時代には徳というものの位置付けが,かなり明瞭であったようです。  

儒家思想からの徳の内容の五行

五行

五能

五常

五倫

 

徳を重視した背景には,

 
王朝や政権の在り方によるところが多く,武力や法治に頼らずに,その政権やあるいは王そのもののカリスマで人民をまとめられることを,良しとしたようです。そしてそのカリスマ性のタイプを五行で分解したわけです。 知識の整理のため,
 

ここではT徳UとはTカリスマUであるとします。

 

 

それから鄒衍(すうえん)とは.....
銭穆という人の『先秦諸子繁年』によればBC305〜240の人と推定され,『史記』の「孟子荀卿列伝」では斉の出身とあり,周と秦の間の時代の人でした。斉では威王や宣王に時の人とされ,もてはやされたようです。
 儒家で性善説を唱えた孟子とは同時期で,実際交流もあった様ですし,そのほか多彩な交流をしていた人のようで,『史記』の「平原君伝」では,当時の趙の国を治めていた平原君に厚遇された公孫龍という人から尊敬されていたと,書かれています。
 また,当時の諸侯が庶民を無視して極端な贅沢にふけっていたことを陰陽の消失と説き,『怪迂の変』『終始大聖篇』という本を書いたと『史記』にはあります。また,『漢書』藝文志,「陰陽家」の項に『鄒子四十九篇』『鄒子終始五十六篇』という本の名がありますが,現在は全て伝わっていません。しかし,『漢書』『呂氏春秋』『塩鉄論』『七略』という本の中には鄒衍の言葉が紹介されているそうです。特に『七略』は紛失していますが,劉向,(りゅうきん)親子が作ったものなので,書いてある可能性が大きいようです。
 これらの本の何処かに相剋による五徳終始説があったようで,このことは『史記』の「封禅書」の中で鄒衍が書いた『主運篇』という本の内容で紹介されていて,「鄒衍,陰陽主運を以,諸侯に顯す」とあります。『主運篇』は『鄒子四十九篇』と『鄒子終始五十六篇』の事ならしいです。
 実はこの『主運篇』は諸侯にとってだけではなく醫家にとっても大変重要な本で,歴史的に陰陽と五行の結合が表立って記せられた最も古い本で,そのほかの記載事項も土王説や五運六気,月令(がつりょう)へと発展していきます。

秦王朝は.....

鄒衍は秦の統一前の人だったので秦王朝を知りませんでしたが,実際に秦の始皇帝政は鄒衍の説を尊重して,秦王朝の水徳を主張しました。役人の服や旗などの公のものには黒を使ったのです。

 

しかし漢王朝になると

様子が一変します。漢の開祖の劉邦(高祖)が,秦を一つの徳を有した王朝とは認められない,と言うのです。それは二代目以降に引き継がれていないのか理由で,一代で滅びる王朝は徳を有した事にはならないと言う事でした。つまりと漢こそが火徳の周の後を継ぐ,水徳であるという主張です。

太初暦の施行

ところが漢王朝が始まって約100年程して武帝が王位に付いた頃に,いままで使っていた暦法では不都合が生じて来ました。それまでは十月歳首(殷暦<冬至の後の甲子の日が年始>?)でしたが,儒教を国の学問としたため学術的な裏付けと規律正しい生活を重要視するようになり,司馬遷らの働きによって太初暦(四分暦<立春を年始>?)が作成され年号が制定されて,新年は1月からとなりました。このときに秦を正式な王朝として認めないと,暦の並びに不具合が出たらしく,秦を水徳を有する王朝とし,漢は土徳の王朝ということになりました。
 そしてさらに80年程した成帝のときに,律暦志(立場が書物?)の劉向と(りゅうきん)という解題図書目録の『七略』を作った親子が,漢の開祖の劉邦(高祖)の,秦を一つの徳を有した王朝とは認められないと言う方針と,相生による帝王五徳説を主張しました。そうすると漢王朝は火徳となってしまいます。

そしてこの説で並べると,


伏羲(木)-<生>-神農(火)-<生>-黄帝(土)-<生>-
-少昊(金)-<生>-(せんぎょく)(水)-<生>-(ていこく)(木)-<生>-(火)-<生>-(土)-<生>-
-(金)-<生>-(水)-<生>-(木)-<生>-(火)

となります。    


 漢王朝が火徳というのは,前漢後,王莽(もう)が建国した新王朝の時に起きた,赤眉の乱に受け継がれます。漢王朝復権のための火徳主張で眉を赤く染め,戦ったのだそうです。そして後漢を興した光武帝がもう一度,火徳を引き継ぎます。その後の黄巾の乱では,帝王五徳説から火徳の後を土徳で引き継ぐという氾濫でしたが,相生での政権剥奪はうまくいかず,三国時代に突入していきます。  


以上の事から,まず解っている各王位,王朝の五行配当として

天皇は木徳,地皇は火徳ということ。

神農は火徳,黄帝は土徳ということ。

漢王朝は火徳ということ。

 

つぎに,ほとんど

一代か二代の途中で終わった王朝は,相応の徳がなかった

ということ。つまり,世襲王朝ではない秦や新は入らない。

それから,『史記』の「三皇本紀」と「五帝本紀」により

三皇三人目の黄帝は,五帝の始めを引き継いだ

ということ。つまり文化や文明を創生した三皇の最後と五帝の始めは同じ黄帝なので土徳。

そして,ここで自説として当てはめる法則性は,

王位を譲られたものは相生関係である。

革命や政権交代は相剋関係である。

つまり三皇の天皇氏から夏王朝までは全て相生関係。

  夏王朝から殷王朝,周王朝,漢王朝は相剋関係。

ただし,神農モ黄帝のときに戦がありましたが,これは神農死後500年経っていることと,
火徳モ土徳なのでこの戦は,政権略奪よりも世の中の建て直しだったということで相生関係。

これらの事を踏まえ,順番に並べて法則にしたがった五行配当をすると,

三才の創生神としての三皇から

天皇氏(木)-<生>-地皇氏(火)-<生>-人皇氏(土)-<生>-五竜氏(金)-<生>-燧人氏(水)-<生>-

大庭氏(木)-<生>-栢皇氏(火)-<生>-中央氏(土)-<生>-巻須氏(金)-<生>-栗陸氏(水)-<生>-

驪連氏(木)-<生>-赫胥氏(火)-<生>-尊廬氏(土)-<生>-渾沌氏(金)-<生>-昊英氏(水)-<生>-

有巣氏(木)-<生>-朱襄氏(火)-<生>-葛天氏(土)-<生>-陰康氏(金)-<生>-無懐氏(水)-<生>-

人への文化,文明の創生神としての三皇から

-<生>-伏羲(木)-<生>-神農(火)-<生>-黄帝(土)-

五帝から

-黄帝&少昊(土)-<生>-(せんぎょく)(金)-<生>-(ていこく)(水)-<生>-

堯(木)-<生>-舜(火)-<生>-

世襲王朝からは

-<生>-夏(土)-<剋>-殷(木)-<剋>-周(金)-<剋>-漢(火)

という並びが考えられます。

 

大切な事は,各々の世襲王朝が有した徳は何かという事です。

つまり.....

夏王朝は土徳である。殷王朝は木徳である。
周王朝は金徳である。漢王朝は火徳である。

となります。

 
 

これらは,三皇五帝の時代からの各々が有した徳の上に成り立っていると考え,五行の法則性を持って,天皇から並ぶとしました。
漢代以降の徳の五行タイプについては,三国時代や晋,南北朝,随と長く続かず,唐になると時代が複雑さを帯びて行き,純粋な徳の統治ではなくなってくると考え五行配当を控えました。

 

では,なぜ各世襲王朝の五行配当を知りたかったかというと,

漢字の起源と成り立ちや,陰陽五行論を通じて東洋医学の発生と発展を推察したかったからです。
それは治療器具しいては中国医療文化の象徴としての“鍼”という史観を見ようと思いました。
“鍼”は前漢半ば頃、センセーショナルな形で出現します。時に世は儒学中心の国家、それは“知”というものが人の世の中心と唱える、人としての謳歌の時代です。古代から培った学問の集大成が花開いたそんな2000年前の王朝に、最新の医療として“鍼”が出現したのでした。
前漢時代、知の世への古代王朝の流布が下記の通りです。

 

そして各世襲王朝の五行配当が解った事で,

土である“夏”の時代は,

神世の古代から人間社会へのT化Uの時代であった。

木である“殷”の時代は,

甲骨文字の発生や,神の言葉を王を経由して政治を行うなどの人間社会のT生Uの時代であった。

金である“周”の時代は,

甲骨文字から漢字への発展や封建制度,諸子百家による本質追及などの,人間社会の持つべき核心へのT収斂Uの時代であった。

火である“漢”の時代は,

それまでの蓄積が花開く人間社会確立のT謳歌(長)Uの時代であった。

と,とらえてみることが可能です。
そんな時代の背景を通して漢字や医学用語の起源やその発展を考えてみたいと思います。