五帝

 司馬遷が『史記』の中であげている五帝は,黄帝軒轅・帝,(せんぎょく)高陽・(ていこく)高辛・帝堯放勲(陶唐氏)・帝舜重華(有虞氏)です。別説として伏羲や神農あるいは少昊(しょうこう)を入れることもありますが一定はしていません。

ここでは三皇三人目の黄帝をそのまま五帝の一人目とします。
しかし,表向きは黄帝の子息である少昊(しょうこう)が在位していたと考えました。黄帝込の土徳です。
 少昊が即位したとき、鳳鳥(ほうちょう)が舞い降りたそうです。鳳鳥とは孔子が乱世を嘆き「鳳鳥至らず、吾やんぬるかな」(鳳鳥がこない。もう仕方ない)と例えにしたほどありがたい鳥です。そのためこの帝王は、鳥を各種大臣に置いたそうでおかげで汚職もなく、世の中は安泰したそうです。

 五帝二人目の(せんぎょく)は少昊の親族です。金徳?です。
(せんぎょく)は「世界秩序のために神界と人界の通行をなくす」として、力持ちの重(じゅう)と黎(れい)の二神に天界と人界の封印を命じました。

 五帝三人目の(ていこく)は、生まれてすぐに自分の名前を言ったそうです。水徳?です。
音楽や楽器を作りました。(ていこく)の息子は五帝四人目の堯(ぎょう)ですし,その後のはるか遠い子孫には、殷王朝の始祖湯王や、周王朝の始祖武王がいます。

 その五帝四人目の堯は父の跡を継いで帝王となりました。木徳?です。
堯はその聡明で情け深い人柄から宮殿に「敢諫の鼓(かんかんのこ)」「誹謗の木(ひぼうのき)」を置きました。「敢諫の鼓」は民が鼓を打って政治の不備を訴えもの、「誹謗の木」は民がこの柱の下で政治についての不満を訴えるというものでした。
 ところで堯の時代には太陽が10個ありました。いつもは交代で一個ずつ昇っていたのですが、ある日いたずら半分で10個いっぺんに昇ってしまいました。そのため大地は干上がってしまい、人々は飢えました。天の神様は、弓の名手であったTげいU(漢字?)にその解決法を依頼しました。
 神様の依頼は穏便に事を運んでもらうことだったのに、げいは9個の太陽を矢で撃ち落としてしまいました。こうして現在太陽は1個になりました。
 
 さてそんな聡明で情け深い人柄の堯の統治が何年も続いたため、以前のように誰も太鼓や柱に訴えを持ってこなくなりました。
 本当に民は満足しているのかと不安になった堯は、実際に町での人々の生活を見に行ってみることにしました。
 すると歳老いた一人の農民が、腹鼓を打ったりコマを廻したりして、楽しそう歌を歌っています。
 「日が出りゃ働き、沈めば休む。水が欲しけりゃ井戸を掘り、田を耕してメシを食う。帝王なんかいなくったって同じだ。」
これを聞いた堯は、「これこそ、無為にして治まるということだ。」と満足したそうです。

『道徳経』第17章.
太上(理想的な指導者は)
下知有之(部下から居ることを意識されない)
其次親誉之(その次は敬愛される指導者)
其次畏之(その次は恐れられる指導者)
其下侮之(最低なのは、バカにされる指導者)

『道徳経』第58章.
其政閔閔(無為の政治は)、其民屯屯(人民のんびりと)
其政察察(苛酷な政治は)、其民欠欠(人民こそこそと)

 またあるとき、堯が旅の途中で国境の番人に「あなたの長寿と富と子宝をお祈りします」と言われました。しかし堯は
「長生きすれば恥をかくことが多く、金持ちになれば面倒なことが多く、子宝に恵まれると心配事が増えるから、お断りします。」と言ったそうです。(荘子から)
 そして在位70年が過ぎた頃、黄河が大洪水を起こしました。堯はこの治水の法を、側近からの推薦で、鯀(こん)という男に頼みました。鯀のとった方法は、塞き止めることで洪水を止めようとしました。しかし水の力は強く九年たっても成果が上がらなかった事が,聡明で情け深いはずの堯も我慢が出来ず、鯀を捕らえて殺してしまいました。後に、楚の屈原(くつげん)という人が、「堯らしからぬ、むごい仕打ちだ。」と言ったそうです。
そしてこのことが,古代中国の政権を震撼し続けることになります。堯(ぎょう)が殺した夏王朝開祖の禹の父,鯀の祭は夏,殷,周と続けられました。たたりを起こすといわれたからです。

 堯はそのころ跡継ぎを捜していて、舜(しゅん)という人材をようやく見つけることが出来ました。
 舜は幼い頃に母を亡くしたため、継母に育てられました。しかし腹違いの弟、象(しょう)が生まれると、継母は象ばかりをかわいがり,舜をいじめるようになりました。でも舜はあくまでも親孝行でした。
 そして成長した舜は、人々から慕われるようになりました。そんなうわさを聞いた堯は、舜と会ってみたところ、聞きしにまさるほど器量のある男でした。早速自分の二人の娘を娶逢わせて様子をうかがうと、申し分ない生活ぶりなので跡継ぎにしようと決めました。
 ところがそんなことが弟の象にとって,おもしろくありませんでした。
 象は両親と相談し、舜を殺そうとしました。例えば、舜に屋根の修理を頼み,屋根に登ったところを,焼き殺そうとしました。また,井戸の水さらいを頼み,井戸の中に入ったところを,生き埋めにしようとしました。でもそのたびに,舜は堯の娘たちに助けられました。
 井戸に埋められかけた舜は助けらた後、家へもどり着物を着替えて琴をひいていました。そうとは知らぬ象は、「兄さんの財産は父さんと母さんにも別けるが、兄さんの妻は俺がもらおう」と言いながら帰ってきました。しかしそこには舜がいて静かに琴をひいていました。
 象はあわてて「兄さん。心配しましたよ」とごまかしたのでした。
 それでも舜は、父母や弟に対する態度を変えませんでした。
 そんな舜に、堯は在位98年で帝位を譲ったのです。

 五帝五人目の誕生です。

舜は世の中を大変よく治めました。火徳?です。

問題になっていた治水事業は、鯀に変わってその息子である禹(う)に任命しました。舜の思いをしっかりと受け取った禹は,舜の期待にしっかりと応えました。
 禹は勤勉にして聡明で情け深く、人の道にはずれないことをモットーとしていました。そして十三年間に治水や道路整備、開拓にと活躍しました。禹の治水方法は、父の鯀のとった塞き止める方法とは逆の、水を通したり、導いたりすることでした。
 この方法で,抑えられれば帝王といわれた黄河の洪水を,収めてしまいました。しかし十三年の間に足を悪くした禹は、独特の歩き方をするようになっていました。この歩き方を「禹歩(うほ)」といい,後に陰陽家がまねるようになったそうです。 そうして舜は、褒美として禹へ玄圭(赤黒い玉)を与えました。
 さて舜は在位して三十九年で、南方への巡幸中に病気で死んでしまいます。そのことを二人の妻は血の涙を流して悲しみました。その涙は、すぐ近くにあった竹に染みついて、紫の斑点になりました。今でも湘水(湖南省)には、紫の斑点の「斑竹」があるそうです。
 舜の死後,帝位は禹に譲られ,禹の死後はその子の啓が受け継ぎました。啓の時代が最初の世襲王朝T夏Uの始まりです。  

ここより中国の古代王朝が始まります。

ここでは,

五帝を,司馬遷の『史記』から

黄帝,(せんぎょく)(ていこく),堯,舜とします。
 


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